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白井市豆知識

1.白井市の紹介

白井市は東経140.3°、北緯35.47°の千葉県北西部に位置する平成13(2001)年4月1日に市制施行した新興都市です。 市域面積は35.48k㎡、平成27年3月末の人口は62,816人です。

現在、梨の名産地として知られますが、中世から近世にかけて、常陸と武蔵(鎌倉・江戸)をつなぐ鎌倉道や鹿島みちなどの交通の要所となってきた歴史、また、江戸幕府が設置した小金牧関係で、馬や林業と深く関わってきた歴史を有します。国指定重要文化財の滝田家住宅や市指定文化財の印西牧場之真景図ほか、文化財が数多くあります。

自然環境は、手賀沼や印旛沼水系の源流域にあたり、東京近郊にあっても緑が多く、気候は比較的穏やかです。オオハクチョウ飛来地の南限地域の一つ(市内清水口調整池)にあたります。
2001.1~2003.12の3年間統計から平均にすると、年間平均気温15.3℃、同湿度65.5%、年間の天候の構成は晴188日、曇130日、雨45日、雪2日となります。
(*気象データの観測点は白井市復1148-8白井市文化センター、温湿度は24時間平均データ、天候は午後2時前後の様子)

2.白井市の地名

白井という名は古く、確実に遡れる史料には慶長7(1602)年『下総国印西庄外郷白井郷之内橋本之郷水帳』(船橋市西図書館蔵)があり、市域関係の村々の旧親郷名として冠された「下総國印西庄外郷白井郷」があります。この白井郷が白井という地名の起源と考えられます。
平安時代の末頃から印旛沼以西の印旛郡は「印西(條)」、「埴生西(條)」「平塚郷」に分かれていましたが、埴生西内の郷や平塚郷は南北朝時代から印西(庄)に吸収されはじめて、消えてしまいます。その一例に香取神宮遷宮関係の造営記録に代々登場していた市域関係の「埴生西内冨谷郷」が康永4(1345)年頃から姿を消し、印西にとって変わられています。応永7(1400)年の『円覚寺新文書目録』によると、室町時代の応永2(1395)年には、印西内と印西外にわかれて、内に8つ、外にも8つの計16郷が円覚寺領になって、荒田の再開発が始まり、戦国期に入るとこれらの郷は 天文24(1555)年に「いんざい十六郷」、天正5(1577)年には「印西庄内外十六郷」として千葉氏の支配地に記録されました。戦国末期に印西外(郷)の支配は不安定になって、天正10(1582)年に「印西外郷」が守護不入化されており、原氏が関与しています。印西地域の慶長7(1602)年の検地帳を調べると、「印西外郷」と冠されたのは「白井郷」しかないため、天正10(1582)年の「印西外郷」は「白井郷」のことでした。室町時代を通して印西関係の郷は16郷のままであるため、「白井郷」は早ければ室町時代当初から、遅くとも戦国期の天正10(1582)年までに成立していたと考えられます。
名の由来については、慶長7年『下総国印西庄外郷白井郷之内橋本之郷水帳』で冨賀谷村が白井郷から切り出されていることに着目すると、白井郷はかつての埴生西冨谷郷の範囲と重複し、地理的条件は変わらないため、富んだ谷津に囲まれた場所にムラを開いて、谷津田の開発が進んだ結果苗代に囲まれるようになったと考えられ、冨谷→代囲→白井という地名成立と変化の過程を想像することができます。

白井市郷土資料館2005『白井の地名‐ニュータウン開発以前の字地名‐』より

3.なるほど講座

(1)ジモティを見分ける方法
現代の生活様式はどこでも変わりなく、東京やその近郊都市といっても様々な地方の出身者がまちをつくり、標準語とよばれる言葉を中心に使って会話します。そのため見た目や言葉ではだれがどこの出身とも見分けることは難しいものです。
白井市でも昭和40年代以降に越して来た方が今や人口の9割以上に達しています。その中で昔から代々暮らしてきた地元の方(ジモティ)を見分けるのは難しく感じられますが、ちょっとした会話の中から見分ける方法があります。(もちろん100%とはいきませんが)それは「山(ヤマ)」という言葉の捉え方を見ることです。
昔から白井辺りに住む人は、「山(ヤマ)」という言葉を一般に「山林」の意味で解釈したり、使ったりします。白井が属する北総地域では、人々は北総台地と呼ばれる低く平坦な台地で暮らしてきました。標高的にやや高い場所があっても、富士山のように一般の人が山と考える地形的な山が昔からありません。そのうえ、白井付近では広大な人工林を営み林業で栄えていた歴史があり、いたる所に山林がありました。そうした自然的・歴史的環境の中で、生活に身近な山林を誰もが「山(ヤマ)」と呼ぶことが当たり前となったようです。昔の土地の様子を尋ねれば、開発前は山林が当然だったので、地元の人なら「この当りは山だった。」、或は「大山があった」などと話します。だから、新旧住民で何気ない話しをしているうち、山と言う話になれば次のような食い違いが生じたりします。

例 1
 新「大山口と言う地名ですが、ここには大きな山でもあったのでしょうか?」
 旧「大山ばかりだったでしょうね」
 新「ええっ、そんなに山を削っているのですか?」
 旧「そうではなく、広い山がたくさんあったということです。」
 新「広い山がたくさん??」

例 2
 新「子どもの頃はどこで遊んでいましたか?」
 旧「毎日のように山へ行って暗くなるまで遊んでいました。」
 新「山登りですか、私も好きな方ですが毎日とは恐れ入ります。」
 旧「? 山登りはしていません。山ムグリ(潜り)ですよ」
 新「山ムグリ??」
 旧「山で隠れんぼしたり、木に登ったり、虫を捕まえたり・・」

(2)白井の梨
千葉県白井市は全国有数の日本梨の産地です。日本梨で良く知られる品種には二十世紀、幸水、豊水、新高などがありますが、これらを総合した出荷規模(平成16年度統計)で関東の白井市、東北の福島市、山陰の鳥取市、九州の伊万里市が国内生産地の四天王です。但し、二十世紀梨は主に鳥取で特化して作られていて、最も栽培が普及している幸水で数えるなら、白井市、福島市、伊万里市が日本の三大産地となります。
千葉県はすでに江戸時代から知られる梨の産地で、市川や船橋が先進地でした。明治時代から東京近郊の市川や船橋の市街化が進み、梨の栽培地は徐々に郊外へとシフトしてゆきました。白井では1905年(明治38)頃すでに栽培されていて、白井木戸新田の浅海久太郎や笠川元吉らが始めたと伝えられています。もともと白井は田地が狭く、江戸時代から内陸に開かれてきた場所(新田)も水が乏しく、畑作より人工林の営みよる林業を発達させ、植樹に向いた広大な土壌が生み出されてきました。そのため果樹栽培にも適したうえ、「米の3倍の手間暇もかかるが3倍の実入りもある」と言うように、まだ野菜が作りにくかった白井には、梨栽培が経済的に大きな魅力となったようです。

現在日本一の梨生産県が千葉県で白井市がその頂点にあって、白井の梨は質の上でもブランド品としての評価が定着しています。梨作り後発地の白井がこれほどの産地になったのには歴史的な要因もありました。戦争中、食料統制で果樹を伐採して畑地転換することを余儀なくされて名産地が潰れてゆく中で、当時の白井村時代に官民一体となり1940年(昭和15)に梨業組合を結成して梨を軍用に供出するなどの苦心で、戦後まで梨樹や栽培道具を守り通しました。永年作物の梨は地主でないと作り難いものでしたが、戦後白井基地(現海上自衛隊下総航空基地)へアメリカ軍が進駐したこともあり、白井村が千葉県最初の農地解放指定を受けて解放が行われた結果、いち早く多くの農民が梨作りに取り組める機会を得ることができました。1949年(昭和24)頃すでに梨を特産としていたのは県北では白井村、市川町、阿蘇村(現八千代市)だけですが、白井ではまだこの頃進駐軍の要求があって麦の作付けも多く、畑地の2/3余りを占めていました。しかし、1959年(昭和34)の白井基地返還やアメリカの余剰穀物輸入開始で麦栽培からの脱却を迫られます。同年第10回全国梨研究大会が白井村を会場に開催されましたが、その後大半の畑が梨畑へ変わってゆきました。5年ごとに面積が倍々化する勢いで1980年代以降には結果樹面積(収穫予定して実をつけさせた栽培面積)においては県内最大を誇る様にまでなります。
また、記録には残されていないことながら、新品種の栽培技術開発で白井の梨農家の努力や貢献が非常にあり、普及したことも聞き取り調査で判明しています。戦後の幸水などの品種はそれまでの梨に比べ栽培が難しく、失敗した梨の産地が多かったと言い、白井では梨業組合の中に研究部を置いたり、個々の熱意で実験と研究が行われ、土壌菌対策や新たな受粉技術を研究開発したりして国県試験場にも提供したと言います。様々な技術が白井で開発蓄積されてきた結果が現在千葉県の果樹栽培をリードしている理由とも言えます。